サラエボ冬季オリンピックと近堂(仮名)氏の出現 1983~84年 

冬季オリンピックのスポンサー・・・って、・・・これは、M自動車における海外広宣活動で画期的な事だった。あの、カタログさえ作っていれば良いと思われた弱小広宣Gが、こんな大胆な行動をとったのに驚いてしまった。

当時のぼくのボスであった新海(仮名)氏が首謀者らしい。結構早く決心したと見られた。すばやい伺い出で認められ、ぼくたちは未知の、冬季とは言えオリンピックのスポンサーになるというのだ。何かおもしろくなりそうだ、ぼくたちは武者震いした。

それから少しして1983年の初めに、新海氏は他の海外マーケティング部に移り、新しくそのポジションに来たのが商品開発、パジェロ生みの親の一人、近堂(仮名)氏だった。後で知った噂だが、近堂氏が新海氏のポジションを得ようと画策した、と言う形だったらしい。
要するに、ある有力上司にお願いして「新海君、君は広宣グループが長いし、そろそろマーケティング部の方へ行く時期ではないか?」と誘導してもらい、長く海外宣伝をやっていて、そろそろ飽きて来ていたらしい新海氏が、その気になった、との事だった。つまり、近堂氏はこのポジションに来たかったのである。何のために?
もちろん、モータースポーツをやるために、と言う図式だと思う。

サラエボオリンピックは新海氏が動いたものだが、そのまま近堂氏に受け継がれる事になった。
近堂氏は最初のグループへの挨拶の中で、「新海氏の弔い合戦としてしっかりやる」と公言していた。後ろめたい気持ちも少しはあったかもしれない。
何が弔いだ、とも思ったが、後の結果を見ると、二者、Win・Win、と言って良いだろう。

近堂氏はぼくはそれまで良く知らなかったが、彼が広宣グループに来るほんの数カ月前に、アイボリー・コーストのラリー・ドライバーとか、パリダカ・ラリーの発端の話で知ることになったばかりだったので、何か奇妙な感覚があった。。
ほんの少々のかかわり合いが突然ぼくのボスとしてやってきたのだ。何か悪い運命に出会った、或いは偶然の魔術にはまった感じがして、いずれにしろ、何か変だ。が、面白そうかも、と感じた。

ところで、冬季サラエボオリンピックだが、ぼくたちの最初の悲劇的な発見は「このスポンサーシップは世界中の何処でも通用する権利ではなかった。」と言う事だった。スポンサーの広告宣伝的権利は各国のオリンピック委員会に依存し、その許可がなければその国での広告宣伝的活動はできないのだ。例えば、日本オリンピック協会がトヨタを日本国のスポンサーとしていれば、当然三菱の活動を否定する事になる。これは大きな誤算だった。
そうして、大した期待はしていなかったがアメリカはフォードか何かがいてダメだった。

ぼくたちの仕事は、大きく分けて、
オリンピックマークをあしらった広告用のシンボルマークなどの制作、
オリンピック現地での露出のための看板などの設置
しかし最も重要なのは、、
各国ディストリビューターを如何に多く巻き込んで広域なキャンペーンとして成功するか、だった。
特に期待するのは現地にも近いヨーロッパだ。ここで、如何にまとまった欧州全域のキャンペーンに仕立て上げるか、がポイントと考えていた。
そこで、ぼくたちは毎年行っているECの広告宣伝会議を、新任の近堂氏の紹介も含めて、サラエボで行うことにした。

その前にぼくたちは取りあえずサラエボ冬季オリンピック委員会があるサラエボを訪れた。社内にもサラエボのイメージが有るわけがない。せいぜい、第一次世界大戦のきっかけを作ったサラエボでのオーストリア皇太子暗殺事件以上の知識は無かった。

ぼくたちは当時ようやく業務用だけでなく個人向けが出始めたビデオ・カメラを購入し(当時のはかなりでかく肩に乗せるタイプだった)、サラエボの町並みも撮影し(もちろん、あの暗殺現場は大きな名所だった)、社内にアピールした。ほとんどの人が初めて見るサラエボの町並みに何を感じていたのかはよく分からない。

サラエボでの会議で、ぼくたちは欧州のディストリビューターに協力を依頼した。半信半疑の、また本当に効果があるのかという怪訝な顔をしたディストリビューター達に熱心に訴えた。分かったのか分からなかったのか知らないが会議は終わりに近づき、最後に、近堂氏がクロージング・スピーチをする順となった。

その頃まだ英語が苦手だった近堂氏は会議中は全く口をきかず、沈黙していた。もし、このまま最後まで沈黙を通したり、誰かに通訳させたなら、欧州ディストリビューターの彼への評判は最悪になっただろう。

近堂氏は、苦手な英語を、絞り出すようにして、途切れ途切れだが、確かにつたない英語だったが、一語一語、必死で絞り出して、最後のスピーチとした。完全な沈黙の中で、内容は別にして、その気迫は全てのディストリビューターに伝わり、会議は成功裏に終わった。「よかったですよ。」と近堂氏に声をかけると、珍しく素直にうれしそうな顔をした。

サラエボの真ん中に看板を予約し、選手村の中に出店を予約し、我々当社関係者のホテルを予約し、また日本でのプロモーションの為の日本のプレス招待の案を練り・・・。

しかし、近堂氏の考え方と行動は今までのぼくたちのやり方とずいぶん異なっていた。
看板を決めるにも、委員会が設定した場所には大した注目もせず、候補になっていない町中の高いビルの壁を要望したり、予想外の要求に戸惑いを見せていた委員会も最後は検討する、となった。
彼らはそんな場所が宣伝の看板になるとは全く考えていなかったのだ。ぼくたちだったら委員会が用意した中でもっとも良いところを選んでいただろう。

サラエボとそのユーゴスラビアは古き欧州を残している国だった。古い趣を残し、小規模だがそのいこごちの良いレストラン、ホテルはぼくの好みだ。
小さな崖の下にあるレストラン。海が満ちると洞窟の様なレストランには道が無く船で通う。ひたひたと寄せる海、そのすれすれの床のレストランで食するシーフード。おもむき満点のレストランに何か夢の中にいるような気分を味わう。

ザグレブの古いホテル、しかし古くとも、インターコンチネンタル・ホテル。高い天井。古いしきたりを守るような簡素な部屋。素晴らしい。
ロビー横に広がるカフェ・バー、ビールを飲む、ウイスキーを飲む、全てが古き良き時代の、往年のインターコンチネンタル・ホテル・・・。全く文句がない。
そのラウンジの中で、ゆったりと、A通、能見川(仮名)氏と共にしばし陶然の時間を過ごす。

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