1977年8月 トラックGから広宣Gへ|ぼくの海外広告アドベンチャー時代

1976年末の初めての海外出張があって、特に文句を言われた覚えはないが、使い物にならない、との判断があったのかもしれない、今考えると、自分ながら、ちょっとひどいかも。「あいつは戦力外」、の判断があってもおかしくはない。

(撮影現場では雑用係にもなる)

或いは、それとは関係なく、人手不足で、お隣の「広宣G」からは、「あいつ、会社から外れた変な格好しているし、おもしろくなさそうに毎日いるけど、こっちの広告宣伝の分野なら、おもしろく何かややるかもしれない。」くらいの事を思ってくれたのかもしれない。
広宣G長は何か人格が砕けて声の大きな人RAさんだった。
そんな外れ社員に、来ないか、と誘ってくれたのかも知れない。(その後の行動を見ると、どうやらRAさんは、「ちょっと問題あり」的な人を救い上げるのが好きのようだった。)
 
1977年の8月、広告宣伝GのSA氏から誘われて(?)、広告宣伝Gに移動した。
 
1970年6月に上京し、7年間が広告宣伝Gへ移るまでに過ぎていた。
その間、クライスラーの小市場契約が発効して、
1972年、北米だけでなく世界各国へクライスラー・ブランドの下に輸出がされ始め、
1976年には世界からそのクライスラーのディストリビューターを東京に集め一大イベントが行われたし、
1976年6月には、私的な話だが、広宣Gの女の子と結婚していたし、
その11月には入社以来初めての海外出張に出かけたし、
すべてが動き始めて、用意は整っていたわけだ。
 
1977年の輸出台数は、484,084台で、1970年の48倍になっていた。
そんな中で、広宣Gへ移動した、やはりトラック関係だった。
 

その頃の広宣Gの主たる仕事は、やはり、カタログの制作。
広告代理店を使って、カタログを作るのだが、その全体的な企画、デザイン、など、代理店から上がってくる案のチェック、修正指示など、そして一方撮影をする必要から、工場サイドへの撮影車の手配、撮影の立ち合い、など、そうして印刷工程での印刷会社のコントロールなどが具体的な仕事になる。
 
 カタログが完成したら、販売店への送付をして一段落、と言う訳だ。
 
もちろんカタログだけではなく、ポスター、CM、現地での広告作成に役立つ資料セット、など一連の制作物がある。トラック関係の広告代理店はJS社、小規模の会社だった。ぼくと同い年付近の担当者もいて、楽しくやっていた。
撮影は、大型スタジオの中でも、野外ロケでも、モノが大きいだけにかなり大変、立ち合い責任者兼手伝いでウロチョロしていた。
 

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