1982年 アフリカ・コンベンション(1)アイボリーコーストにて:パリダカ・ラリー参加への助走|ぼくの海外広告アドベンチャー時代

僕たちが、初めてアフリカでディストリビューター・コンベンションを開いたのは、期待の新型車(初代)パジェロのローンチングのためだった。
 
比較的ビジネスの規模の小さなアフリカのディストリビューターには日本への旅行の費用、またその間ちょっと長い留守をすることが大きな負担になり、東京でのコンベンションへの参加は少数に留まっていたので、思い切って、かなりのリスクを伴う冒険だが、僕たちは、アフリカでコンベンションを開催する事としたのだ。
試乗用の車も先回りして送っておいた。(欧州での認証車<=欧州での認可を得るための車>を空送した)
 
当時アフリカの中でも豊かで政治的安定を保っていた元フランス領、アフリカの西海岸の国、アイボリーコースト(現在の名はコートジボワール)の首都、アビジャン、飛行機で横っ飛びにナイジェリアのラゴスから移動してきた僕たちだが(ナイジェリアでは現地キャンペーンを行った、これも大変だった)、その砂埃だらけ、茶色っぽいだけのラゴス、ナイジェリアから、アイボリーコーストに入ると、緑に満ち溢れた大地が広がっていて、その大きな違いに驚いた。
 

NigeriaとIvoryCostは2つ3つ国を挟んで横並びです。

英国人のコンサルタント、クーパーさん(元CISA)に広告代理店A通のTOさんが皮肉を言う、「クーパーさん、お宅の国が統治した国(ナイジェリア)と、フランスが統治した国(アイボリ・コースト)では、どうしてこんなに違うんですかね。」
クーパーさんは、その国土の様子の現実の違いは認めながら、説得力のない説明を真面目に繰り広げる。(その時にはTOさんは既に相手をしていないのに・・。)
 
僕たちはこのアビジャンの最高級ホテル、ホテル・イボアールに泊まり、ここの大ホールでコンベンションを開く計画だ。部屋の立派さ、ホテルとしての格、サービス、何をとっても世界最低のラゴスのホテルと比べようもなく、快適である。
しかし、重大問題が発生した。
 
このコンベンション開催での核である機材一式が行方不明になったのだ。東京でのコンベンションで使った機械とプレゼン資料を、ちょっとコンパクトにして、機材と資料を完全セットとして、ジュラルミンの箱数個にコンパクトに作り上げ、単独で送るとアフリカでは危ない、との事で、当社の参加者が東京からずっと手荷物として同じ飛行機で帯同して来たのに、忽然として、その完全セットがジュラルミンの箱ごと、このアイボリー・コーストの空港に着くなり、消えてしまったのだった。
 

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