1982年 アフリカ・コンベンションからパリ・ダカール・ラリーへ|ぼくの海外広告アドベンチャー時代

そうして、その撮影のためにをパジェロのドライバーとして雇われていたアビジャン在住のフランス人(アイボリーコーストは元フランスの植民地)と会った。当然、美しい走行と激しい走行のためプロが必要で彼を雇ったのだが、彼はこの地でラリーを行っているラリー・ドライバーの第一人者 だった。
 
彼は、この撮影のためのパジェロの運転を通して、深くこのパジェロに傾倒し、ぼくにお願いがある、と言い出した。
 
彼は、このパジェロで次のパリ・ダカール・ラリー に参加したい、M自動車がチューンしたパジェロを提供してくれないか、と言うのが彼の要請だった。
 
彼はやや小柄な、やや控えめな、非常に真面目そうな人間だった。どのような結果になるか分からないが、東京で検討してみる、事を約した。
 
何となく好感を持って、その聞いたことも無いラリーの名前(当時日本ではパリダカの名前など殆ど誰も知らなかった)に疑問を抱きながら、できれば彼の要請に答えてやりたい、と思っていた。
 
当然、程度は別にしてもアフリカ地域の宣伝には役立つに違いない。資金はある程度海外宣伝G予算でまかなえるが、ラリー用に車を作ったり、技術的な面ではM自動車のどこかの協力が必要だ。
東京に帰ったのが4月26日、日本を出て40日目、今回は長い出張でナイジェリアでキャンペーンを仕込み、欧州に行き、EC広告ミーティングを開催し、キャンペーン実施のために再びナイジェリア、そうして横っ飛びに茶色のナイジェリアから緑豊かなアイボリーと殆どアフリカ漬けの出張だった。本当に疲れた。
 
まず周りの人たちに、誰に相談したらよいか、と聞きまわってみると、数人が口をそろえて、乗用車商品企画の近堂(仮名)氏だろ、との話し、ぼくは全く知らなかった。
 
それで早速電話した。答えはそっけなかった。
「俺は、明日から米国に出張する。話としてはおもしろいので、帰ってから話ししよう。」
 
 

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