1982年 パリ・ダカール・ラリーの発端|ぼくの海外広告アドベンチャー時代

 
で、10日ほど後に、帰ってきた近堂(仮名)氏と話す、記憶によると要点は次の通りだ。
 
1.パリ・ダカール・ラリーは知っている。今度のパジェロに最もふさわしいラリーではないか、と思っていた。いつか出なくてはならないと思っていた。
 
 2.そのアイボリーのドライバーでは勝てない。出るのならば、勝てるドライバーで出るのでなければ意味が無い。また、彼で勝ったとしても、日本での宣伝にはならない。
 
と、言うことで、結論は、検討してみるから、ちょっと待ってくれ、と言うものだった。
 
それからしばらく経って、(その間にいろいろあったのだとは思うが・・・とっくにアイボリーのドライバーは検討から外され、現地には断りの連絡を入れていた)、しばらくして、ぼくが欧州へ出張する時、ぼくはDK氏他いわゆるモータースポーツ重要人物達に呼ばれた。
 
DK氏、NTK氏、TMK氏、のモータースポーツ三羽ガラス。ぼくへの要請は「ついでにフランスに寄って、フランスのディストリビューターであるS社に行って、パリ・ダカール・ラリーについて、それがどんなものか、根掘り葉掘り聞いて欲しい、また、M自動車が参加する場合、協力することの約束を貰って来て欲しい」と言うものだった。S社はヤマハ二輪車のフランス代理店でもあり、ヤマハでこれまでパリ・ダカに参加し、ホンダと競り合ってきた。パリダカ・ラリーは熟知しているはずである。
 
それからぼくはA3の用紙を前に、彼らが口々に出す質問を書きなぐっていった。それは、食事は誰がどのように用意するのか、どんな所に泊まるのか、車が潰れたらドライバーはどうやって帰るのか、水は誰が用意するのか、などなど、ラリー生活、生存の仕方が多かった、と記憶している。この部類の事は殆どわかっていなかった、という事だったのだろう。
 
A3数枚に書きなぐられた多数の質問を整理し、フランスへ向かった。
S社の社長は英語は当然しゃべるけれども余り上手くない、との事で、当時のM商事のフランス語ペラペラのフランス駐在員ZY氏と共にパリ郊外のS社を訪れた。私の日本語、ZY氏のフランス語、社長のフランス語、ZY氏の日本語・・・速射砲のように連発し、社長は適切な情報をスムーズに教えてくれる。殆ど、質問は終り、最後の質問をした。
「ところで、M自動車がパジェロで参加する場合、貴方は協力してくれるか?」
 
それまでの話しの経緯で、M自動車の意図と、S社の考えと大きく違うのは、M自動車はまずクラス優勝を狙い、徐々に総合優勝を狙って行く、と言う考え、一方S社はクラス優勝には意味が無い、最初から総合優勝を考えて行くべき、と主張していた。
 
日本マーケットを考えると、確かに日本人ドライバーで無改造クラス優勝でもすれば、十分アピールできる、日本の新聞も十分騒いでくれるだろうし、それでまずはOKだった。そうして徐々に総合優勝へ向かえばよい。
しかし、S社は2輪車での経験を持ち、フランスでは、又海外では、総合トップ争いしか話題にならない。
 
しかし、2分くらい沈思黙考の後、社長は「イエス」と答え、ミーティングは終了。
その日のうちにホテルでレポートを書き、最後に「乱筆、失礼!」と記して、東京へファックスして、寝た。
 
翌年、1983年、パジェロは、市販車無改造クラスで、クラス優勝を果たした。(総合では11位だった)
 

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