村上春樹のジャズと、ウィントンとチェット・ベイカーのビデオ

今や飛ぶ鳥も落とす(飛ぶ鳥なんて落としたくないでしょうが・・)「村上春樹」がジャズ喫茶「ピーター・キャット」のマスターだったと言うことは有名な話になっていますが、彼の小説などを読んでいると(例えば「海辺のカフカ」)、クラシック等にもかなりなのめり込みを感じます。いつあんなにクラシックを聴いたのだろうと、ちょっと不思議でした。
いま、彼のエッセイ集(?)「意味がなければスイングはない」を読んでいると、一端が書いてありました。

あるオーディオ誌に継続的に発表したものですが、量の問題があり、雑誌には削ったものが掲載、この本が本来の長さの文章だそうです。

まず、基本的に彼はジャンヌなしに何でも聴く姿勢を持っていること、そして、高校時代までに非常に多くの音楽を聴いている事、また専業作家になって、5-6年間ジャズを聴く気が全くしないで、クラシック、ロックなどジャズ以外の音楽を聴いていたのでした。
(この本には、その他にもけっこうズバズバと言いたいことを言っているので、また後日)
で、本題ですが、この本のなかのウイントン・マルサリスの章「ウィントン・マルサリスの音楽はなぜ(どのように)退屈なのか?」で、その根本的(潜在的)な退屈さを解明しようとしており、ウイントンに期待しながらも、その根本でのジャズの真髄との齟齬を指摘し、ウイントンにその克服を切に祈っているのです、何故祈るかと言うと、ウィントンがそのままだとジャズが歴史的産物に堕してしまう危機だと認識しているからです。つまり、ウィントンがそれを握るキーパーソンだと思っていると言うのです。
その中で、彼はウイントンのレーザー・ディスク・アルバムを聴きながら、ある程度感心しながら、やはりその息苦しさを感じ、近くにあったチェット・ベイカーを追った映画「レッツ・ゲット・ロスト」のビデオ(多分レーザーディスク)を見たのでした。村上氏曰く、晩年のチェット・ベイカーの音楽をウイントンは決して許さないだろう、しかし、そこにはウイントンにはない「その生き様から、どうしても言いたいこと」が「したたるようにある」、と断じているのだ。「これがジャズだ。」と得心する。そして「それがウィントンにない」ことが致命的である、と言うわけだ。
で、文脈と離れますが、とりあえず、このビデオを見たくなってしまった。
まず、グーグルで調べると、このビデオは絶版で、中古でも1万円以上の値がついている、ちょっとしたレア・プレミアムである。それから図書館を探してみた。東京都の図書館横断検索で、都下の53区・市など多分2-300の全図書館の中でたった1館、府中市図書館が持っていた。幸運にも近くだ。ただし、府中図書館は、府中市在住者・勤務者と近隣地域しか貸し出しを行なわないので借りるのは駄目だ。現地でそのまま視聴は可能なので、さっそく行ってみる。

府中に行くと、丁度お祭りの最中でした。

こんなことはけっこう早い。書架にはなく、倉庫に眠っているビデオを出してもらい、満員の10あるブースが空くのを待つ。
1時間ほど待って、ようやく見ることが出来た。

おもしろい・・・・、晩年のベイカーは薬でよれよれだ、そして映画は、その晩年のベイカーをリアルで撮り、過去のフィルムと、多くの関係者のインタビューで構成されている。
3人の奥さんの内2人にもインタビューするのだが、最初の奥さんが、「あの売女!」と3番目(?)の奥さんを非難し、「あっ、これはカットしてね。」と要請し、直ぐまた後に「これはカットしちゃダメよ。」と言うかと思うと、3番目の奥さんが「あいつは、25年前にわかれたくせに、未だに電話してきて、チェットと話したがるの。」などと泥仕合です。

コメントをどうぞ

内容に問題なければ、下記の「コメントを送信する」ボタンを押してください。

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください