1968年 M重工入社試験: 銀行はイヤダ、製造業にイキタイと叫んだ|ぼくの海外広告アドベンチャー時代

大学4回生に至り、就職活動を始める時期になった。
確固たる職業意識を持っていないぼくは、こんな仕事がしたいと言うイメージも考えもないぼくは、とりあえずまともな会社に入って、なるべく楽しい生活が始められれば良い、と思っていて、法学部の多くが考えているような銀行とか商社とか、その辺りでも受けてみれば良いのだろうといい加減そのものだった。
 
ある友人が、親が銀行員だったらしいが、いろいろな銀行をチェックしながら、この銀行は出世し易いので狙い目だ、などとつぶやいているのを聞いて、全く驚いてしまった。
 

一応いわゆる一流大学卒だが、ちょっと(又はかなり)成績も良くはないので、銀行などは難しいかな、とは思いながら、取りあえず受けに行った。名前は忘れたが当時の一流銀行(富士銀行だったかな?)である。
今は何と言う銀行に組み込まれたのかわからない。
その最初の経験で、とりあえず銀行はやめようと思ってしまったのである。
どう言う順序だったか、応募者一同で銀行内のある部屋からある場所へ移動する事があった。本店だったが、お客さんに向かってあるカウンターの内側の後ろの壁の一方のドアから入って、その壁に沿って移動しもう一方のドアへ抜ける。

お客さんのいる方向へ向かって多くの社員(ほとんどが女子社員)が働いているそのオフィスの後ろ壁のドアから入った瞬間、ドヤドヤと言う音に、その多くの女子社員が背後に何が起こったのかと一斉にぼくたちを振り返った、そして一瞬後、女子社員全員がにっこりと同じ笑みをぼくたちに見せてくれたのだ。
その時、ぼくの持っている世界への手触りとはあまりに違う感触に、背筋が凍るような絶望的な違和感を感じてしまった。

銀行はやめよう。
そして、ちょっと落ち着いて企業をぐるっと見回し、しっかりした基盤を持った、ものを作る、工場を持つ、製造会社を考えよう、と決定した。
 

そこに、何と言うタイミングか、母親の何かのコネで、「M重工の常務さんか取締役さんの関係の人がいて試験を受けられるよ、どう?」との事で、「受けたい!」と、この時はいつも口やかましいと思っていた母親に感謝した。
内部の役員から推薦を受けた学生だけで、しかも面接だけの入社テストだった。
私には一つ懸念している質問があった。
「当社は武器を生産していますが、それについてはどう思いますか?」
 
当時の私たち学生において、どんなノンポリ学生でも、平和憲法、交戦権の否定、そしてそれに引き続いての武器を作ることなどへのネガティブな論理と感情は持っていた。
 
そして、やはり、それは尋ねられた。
どのように答えたかは正確には覚えていない。しかし、「日本が武器を作る事は許されない事だ。」などとは決して言わなかった。
いろいろ事前に熟考を重ねた上で、一方では、戦後生まれとして、学生として、諸手を上げて賛成しているわけではない、そして、他方では、そのような必要があり国から要請されるものを生産するのは企業としておかしくはない、と言うような、両方を含んだものにした。
 
更に、「どうして当社に入りたいと思ったのですか?」と言う典型的な質問に対する返答では、理由の一つに、前述の銀行の例を引いて、金融業より製造業と、持ち上げたのです、これは受けたようだった。
そして、合格した。
まあ、元々、内部の推薦なので、よっぽどの事がない限り合格するようではあったが。

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