1969年 新型ギャランがぼくを救ってくれた|ぼくの海外広告アドベンチャー時代

1969年4月、東京での研修があけて、社会人、サラリーマンの生活を始めた。京都製作所、業務部業務課、がぼくの部署である。

面接の時はそんな意識もなく入社したぼくにも、入社までに段々と様子がわかってきた。とにかく、天下のM重工業株式会社に入社したはずなのに、来年にはこの京都製作所の全員が、そのまま、M自動車工業株式会社に移行する、と言うのだ。

でも、とにかく、自分でお金を稼いで、自分でお金を使える、立場になった事には満足でした。しかも、金融関係などでない、製造会社、と言うのがうれしい。

そう言えば、ぼくの希望勤務場所として、1番=神戸造船所(当時造船は世界一)、2番=東京本社(東京はおもしろそう)、3番=京都製作所(学生時代の4年間住んでいた)と記載したのだが、何の躊躇もなく、3番目の京都製作所に配属されたらしい事もわかった、当然、誰も(除く、自動車好き)が天下のM重工ではない会社になろうとする製作所に行きたくはないのであって、たとえ3番目でも、希望の内に入れば、即そこに配属されたのでした。この3番の京都製作所は主として乗用自動車のエンジンを作っているので、ほとんど丸ごとM自動車へ移行する事になっていたのだ。

時々思ったりする、あの時、京都製作所を書かないで、例えば、当時世界最強の日本の造船工業の中心、神戸造船所に配属されていたら、どうなっただろうか、と(多分こんなおもしろい会社生活はおくれなかっただろう)。

M重工ではなく、M自動車がトヨタやホンダやそして世界の強豪と自動車分野で戦う事がわかってきて、そして、自分たちの会社がもっている自動車を見てみると、正直そら恐ろしいと感じた、これは良く覚えている。そのような目で、コルト1200などの主力乗用車を見ると、愕然とする、まさしく古色蒼然とした一筆書きででも描けるような完全箱型の車が当社の主力車種なのである。

明らかに、劣っている、或いは内部的に、機能的に劣っていないにしても、外から見て、そのスタイルは遅れている、魅力がない・・・・、これで生き残って行けるのか・・・このまったく意識の足らない落第新入社員にも、わかるような差を感じたのです。これは、ちょっとやばい。

しかし、うれしい事に、その危惧は遠くないうちにとりあえず払拭できた。

ギャランハードトップ

この年10月(つまり入社後半年)に新型ギャランの発表が行われ、京都製作所のちょっとした広場にもその車が展示された。これを見て、ぼくはすっかり安心した。

もちろんこの車が良く売れるのかどうかは何とも言えないけれど、少なくとも、当社の車は、或いは当社の車の開発力は、日本他社に比べて、決して劣ってはいない、ということをこの車を見て確信した。レベルとして劣っているわけではない、同じ土俵で戦ってゆけるレベルには疑いもなく、ある。入社時のコルト1200などを見たときの、他社とはレベルが違う、と感じた失望感は消えていた、今後、ちゃんと戦って行ける、それならば十分だ、段々と競って行けば良い、チャンスはある。

同時に他の危惧もその時感じた。ぼくの上司が聞こえるようにつぶやいた言葉、「しかし、当社はこんな鉄板の薄いちゃらちゃらした車を作って良いのか。」・・・ぼくはまたショックを受けていた、そのような見方があるという事、そしてこの会社の中の中堅がそう思っている事・・・。

もちろん、その本人は、いや多分全ての従業員も、もはやM重工の社員ではない事に、心の傷を負っていたに違いない。

M重工の車は鉄板が薄くてはいけない、と言う意識、言い換えれば薄くても良い車を作るためにM自動車を分離独立させたのだろう(後で知ったが、一番の理由はクライスラー社との提携で必要だったらしい)。

と当時は思ったのだが、やはりみんなが悩んでいたのは、親から離れて出航する不安であり、M重工を離れた、或いはM重工から出てきたM自動車はどのような車を作るべきなのか、その根本的な車作りのコンセプトなのだろう。

トヨタ、ニッサンと同じような車でよいのか、さすがM重工らしいと言われるような車なのか、不安には違いない、しかし、とにかく答えは目の前にあった、なかなかかっこ良い車じゃないか、大丈夫、やって行ける。

重工らしい鉄板の厚い車でなく、かっこよい車を選んだわけだ。

何も知らない、特に自動車好きでもない、ド新人の私が感じたのだから、大丈夫だ。

その時の販売状況はよく覚えていなかったが、M自動車としては大ヒットだったそうである。

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