1970年 東京本社での最初の仕事|ぼくの海外広告アドベンチャー時代
ぼくが東京本社で所属したのは海外本部海外企画室だった。
そこでの最初の頃の仕事の中で、一番覚えているのは、年度計画の作成だった。
要するに、今年、来年、どの国に、どの車種を、何台輸出するか、の計画を策定するのだ。具体的に言えば、各海外営業部に国別の計画を出してもらって、足し算する、と言うことである。
1969年度の輸出実績は以下の通りである。
1969年 11,514台(13,199ー沖縄分1,685)
この頃、沖縄へは海外扱いで、輸出台数に含まれていた、それを除いて、11,514台である、当時はこのような台数規模だった。
(その頃はまだ計算機はない、入社時には一人一台のそろばんが配布されていた。)
(こんな計算機が部に一台ころがっていた。誰も使っていなかった、と思う。)
ところが、こんな台数規模でも、車種別に、国別に計算すると、どうしても縦と横の合計が合わない事がある。今、エクセルを使えば、あっという間にできてしまうことが、男4人がそろばんで、徹夜しても縦横が合わないこともあった。・・・・すごい時代だった。
白々と明ける朝を迎えて、どうしても縦横が合わないので、注)で3台合っていないことを明記して、早朝の会議に提出したこともあった。
例えば、この1万1千台をどこに輸出したのかと言えばベスト10は次の通り。全輸出国数は約30(乗用車、トラックを含む。ノックダウン<完成車ではなく、何個かに分割され、現地で組み立てられる>を含む)。
南アフリカ 1,342
マレーシア 1,241
タイ 1,118
オーストラリア 1,108
セイロン 751
フィリピン 592
台湾 513
ニューギニア 482
インドネシア 460
ケニヤ 416
そして、1969年の11,514台が、翌年から、倍々ゲームになる。
(1970年6月からがM自動車となる)
1970年 22,189
1971年 83,841
これは大部分がクライスラーブランドでの米国への輸出開始のおかげである。
M重工時代のちまちました輸出からクライスラーとの提携を基礎としたダイナミックな世界への進出を計ったのである。
でも、まだ、ぼくたちは、そろばん片手に、1万台中3台が合わなくて、徹夜開けの朝日を見て、涙していると言う・・・・壮絶な時代だった。