1973-75年ころ 激変の中でぼくの仕事は?|ぼくの海外広告アドベンチャー時代

M自動車と言う新会社が立ち上がったころと名前は同じ海外企画室だったが、会社の規模、動きに従って、だんだんと発展して行き、数個のグループが構成されていた。
乗用車G(乗用車の海外向け商品企画)、トラックG(トラックの海外向け商品企画)、業務G(受注、生産、船積み手配)、企画G(年度計画など)、広宣G(海外向け広告宣伝)。
ぼくは、トラックGに属していた。
 
当時のM自動車の海外市場のテリトリーは大雑把に言うと、大きく3つに分かれた。
1)クライスラー社:アメリカ、カナダ
2)クライスラー社の子会社CISA:中東、アフリカ、中南米、
3)M自動車:アジア、欧州。
 
それぞれのテリトリーでの区切りの活動が次のように現れている。
1)では、1970年10月にはUSAへ乗用車を初輸出した。
2)では、1972年9月にはCISAテリトリー11カ国へ初輸出した。
3)では、1974年にはM自動車のテリトリー欧州で最初のディストリビューターを設立した。
 
1)クライスラー社、2)CISAが扱うテリトリーでは彼らが、M自動車の名前でなく、例えばダッジなど彼らの名前の下でマーケティングし、営業し、M自動車にオーダーして、M自動車は下請け生産会社として言われた注文を生産し、出荷する、役割となる。従って、それらのテリトリーではM自動車海外本部の仕事は受注作業と彼らをヘルプする作業、と言うことになる。
 
そうして、3)のM自動車独自テリトリーでは、従来から事業を進めていたアジア、そして新しく自前で進出しようとする欧州に対し、独自の活動を行っていた。
 
こんな激変の中で、ぼくは海外企画室の「トラックG」に属していた。何をしていたかと言うと、・・・・・とてもおもしろい仕事とは、言えなかった。
仕事はおもしろくなかった。単なる仲介なのだ。
 
海外営業がCISAとか海外の販売店からトラックの引き合いを受け、価格設定のための見積もりを工場側にお願いするのだが、この「トラックG」が窓口で工場に見積もりをお願いする仕組みだった。そして、見積もりが出てくればそれを営業に渡し、なかなか工場から出て来なかったりすると、早くよこせ、などと要求する、どう考えてもおもしろい仕事ではない。
 
勝手にさぼっていた、と言うのが状況だった。ただ、トラックと言うのはそれなりにおもしろく、ベンツだってやっているし、たしかに武骨だけれど興味深いものだった。
 
 
つまらない仕事をさぼりながら、米国から定期に送ってくる「Automotive News」などを元に、その頃から動いていた世界レベルでの提携、技術協力関係などをチャートにしたりして遊んでいた。
私の上司は、当然ながら、そんな私を苦々しく見ていたに違いない。噂では「TMはいらない。」と叫んでいた時があるそうだ。しかし、上司として当然で、ぼくが外れ社員なのだ。
 
それでも、よく覚えているのだが、その上司がやってきて、突然、「君がいつも書いている世界メーカーの相関図をコピーしてくれ。」と言った。当社もそのような中に関係を持つ状況になり、当然まず現状が必要になり、ぼくの上司は、あれだ!と思い当たり、あの資料で世界の状況を説明したに違いない。さぼり人間も時折役に立つ。
 
 
何しろ、その頃、長髪で会社にくる社員はいなかった。まともな社員と思われないのは当然だったかもしれない。肩まであった長髪だった(会社をなめているとしか言えない。正直全く気にしていなかった)。
 
また噂では「TMを海外本部から追い出せ。」と主張したえらいさんもいたと聞いた(随分あとから聞いたのだったけれど)。
 
 会社の仕事はおもしろくはなかったが、外におもしろいことがいっぱいあったので、あまり気にしないで、さっさと仕事を終えて、一人で街に繰り出していた。
 

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