1970年 東京への転勤、M重工からM自動車へ|ぼくの海外広告アドベンチャー時代
そうして、年が明け、1970年、6月にはいよいよM重工から、M自動車が生み出されることになっている年の初め頃、M自動車の東京本社に各事業所(工場)から人員を出すことになっていたらしい。
いろいろ割り当てがあって、京都製作所から何人、配布されて業務部から何人、また配布されて、業務課から何人かを出さなければならないらしい。
業務課の上司たちはかなり困っていた、そもそも京都に住んでいる人たちは、特に家族持ちは、京都を離れたくないと思っているし、それが、鬼が住むという東京となると、多分行っても良い、と言う人がいなかったようだ。
何かのミーティングか何かで、ぼくは「ぼくなら東京本社に転勤しても良いです。」と発言した。
よく覚えているのだが、その時、周りの人たちの顔は一斉にパーっと明るくなって、笑顔になって、「そうか、行ってくれるか。」、喜色満面で嬉しがってくれたのです。
振り返ってみても、ぼくのしたことであんなに周りの人が喜んでくれた記憶は生涯にない。
新人で、どうも人種が違うようなぼく(殆どが皆が紺のスーツなのに、自分だけは明るいブルーでちょっと光沢のあるVANのスーツなど)には当然大した仕事は与えられず、そんな仕事にも仕事が退屈で気が抜けた失敗を繰り返して迷惑をかけたが、この1年数ヶ月の間の数々の迷惑をこれで一気に返した、と信じている。
何故、東京本社に転勤を希望したのか。
一つは学生時代の4年間と社会人の1年間、京都に暮らして、少し京都に飽きていたこと。ちょっとした京都の術縛から何でも良いから逃げたかったのだろう。
もう一つはどうも工場というものが自分に合っていないと感じていたこと。まだ未熟極まりない人間のぼくは工場の人たち、特に現場のおじさん達とうまくつき合えない感触があった。本社のような環境の方が合うのではないかと思った。
また、入った当初、課長さんは、「仕事は、定時までに終えて、終わらなかったら、また翌日やれば良い。」と言っていたのに、係長クラスから、企画部に貸されて、夜遅くまで、私自身の仕事に関係ない意義不明な単純計算を強制されて、遊び盛りなのに本当に嫌になっていたりしていた。
そうして勇躍、2つ、3つ年上の同じ業務部のKTさんと共に上京したのだった。
上京した日、夕方、成城にある独身寮への途中、KTさんは途中の寿司屋にぼくを誘い、「今日は最初の日なので、私がおごってやる。今後はおごったりしないのでそのつもりで。」との宣言の下、お寿司をいただいたのでした。
(ホンダのCL72、スタイル抜群で随分気に入っていた。)
京都時代は同僚から中古の250ccのホンダのバイクCL72を譲ってもらい、朝早く、出勤前に独身寮の直ぐ近くから北、日本海へ延びる山越えのワインディングロードをよく走っていた。誰もいない早朝の登り下りの曲がりくねった道を走り回る、まだヘルメットもかぶらなくて良い時代、あの気持ちよさは忘れられない。
東京に出るとそんな事もできないだろうと、バイクは私の出身地岡山県津山市でジャズ喫茶を開くCKにあげた。
何かおもしろいことがあるだろうと、京都を捨て、バイクを失った。