1980年6月 サウジアラビア:現地に出て行くのか?|ぼくの海外広告アドベンチャー時代

それまで、クライスラー社海外部門CISA(シサ) にM社の車の販売を任せていたのだが、殆ど突然C社は海外撤退を初め、それに代わって、M社は自ら海外市場、販売を考えなくてはならなくなった。
 
そして、その流れの中の一つとして、中東の最大市場であるサウジアラビア で、Mブランド車を立ち上げる事となり、広告宣伝Gも当然関係する。
 
それまで、このグループのメインの仕事は、M自動車が管轄する限定された市場用に、
「カタログを作る事」と
「現地販社が行う広告費用の補助をすること」
だった。
だから、このサウジアラビアの立ち上がりでも、RA-G長の考えていたのは、現地の販社に立ち上がり計画を出させ、その50%とかの費用を補助する、と言う事で当グループの仕事は終わりのはずだった。
 
その出てきた計画案を見て、ぼく達(若手将校か?)が感じたのは、要するに、マス広告のみの立ち上がり計画だな、という事。当時、ぼく達はもっとビロウ(新聞・TV等のマスメディアに対し、現場でのセールスプロモーション等を意味する)を含んだ立体的な立ち上がりをすべきと考えていたし、どう見ても、販社にはまともな広告担当者がおらず、代理店の言うがままの計画をOKとしている、としか思えなかった。で、僕は、こんな計画に金をだすより、出す予定の金額で自分達で立ち上がりをやろう、とRA-G長に提案した。
 
G長の反応は以外にも、即座に駄目、ではなかった。
「おまえね、あんな行った事も無いような国で、何も分からず立ち上げをやるなんて、無謀だよ。」と言う感じで、・・・と言いながら、G長特有のいい加減さ、と、(多分)ちょっと先を見てみたい、と言う好奇心で、「まあ、ダメ元でやってみたら」・・・結構簡単にOKとなった。
 
で、ぼく達が計画したのが、大立ち上がりイベントだった。
 
それは、後で振り返ると、マーケティングを無視した、壮大な誤りを含んだ、そして勢いだけで突っ走ったイベントの始まりだった。
 
立ち上がりにおいて、まず、第一の問題は、それまで、CISAの元でMitsubishiと言うブランド名は消えていて、ただGalantとかLancerとかの車名ブランドのみでCISAは売っていたのだ。
<別のところで述べているが、だから、驚いたことがあったが、ケニヤの新聞に載っていた登録データではトヨタ、ダッツン(当時日産はこのような名前をブランド名にしていた)、などと並んで、Mブランドではなく、GalantとかLancerと言う車名がメーカーの名前の立場でアルファベット順に出ている、と言う始末だった。>
 
だから、ここ、サウジアラビアでは初めてMitsubishiと言うブランド名を立ち上げなければならなかったのだ。
広告宣伝Gで言うと、
1)初めて、海外の、ある一国のマーケットで、
2)初めて、直接的に現地のお客に対して、
3)新ブランドとしてのMブランドを立ち上げ、同時に、新型車を立ち上げる、と言う意味でした。
 
もちろん立ち上がりだけの短期だが、自分たちの安全圏から一歩外に足を踏み出した、と言う事だった。
それまでは、日本から離れなかったし、何か行動するにしても、現地販売店が自らの市場に活動し、我々はそれを後ろから支援する事であった(いつでも逃げられる状態)。
確かに、無謀な一歩だが、そしてその無謀さは後で実績が示していたが、ちょっと大げさだが、グループの活動の範囲から踏み出すことができた気がする。
<ずっと後に、私の管理職への昇進理由を考えている上司から、「自分がやった成果を10個上げろ」とオーダーされ、これを含めたが、これだけは全く通じなかった。>
 
これ以降、気分的にだが、僕たちは、中東だろうと、アフリカだろうと、欧州だろうと、アジアだろうと、現地へ赴き、必要ならば、直接的な活動を行うことに躊躇しなくなった。
 
サウジアラビア、中東の盟主、酒が飲めない国、砂漠の国、石油で大金持ちの国、僕とA通の新人NW君、SP(セールスプロモーション)のBN氏の三人は悠然とその見知らぬ国へ向かった。
 

僕たちの計画は、要するに、今までなかったブランド、Mitsubishi、を今回新たにこの国に導入し、新しく登場した日本車として、ブランドの名前を植え付け、今後の知名度の向上に資するようにすること、どのような車種があり、おおむねどんな車を作っているのかを知ってもらい、どこで売っているかの認知を得る、と言う正に基本的な事だった。

マスメディアでは、TV広告がないので、新聞広告に頼らざるを得ず、それを上から流して、連動して地べたで一大集客イベントを行い、一気に知名度獲得して、続いて、各販売拠点でのキャンペンを張って、各販売店にお客を集める、と言う、誠に正攻法と思われるものだった。
とは言え、購買層のまともな調査もなしで、どんな車としてローンチしようとするのかも曖昧で、まあ大騒ぎで知名度を上げる、的なものになってしまったかも。
 
 
メインイベントは、サウジアラビアのディストリビューター、ジェッダに本社を置くアレサイ社の広い土地を使って、サウジでは少ないと言う、アミューズメント指向のフェスティバルを開き、来場者の中から抽選で、ギャランが当たる、と言うもの。
 
様々な遊道具は東京で作り、サウジへ送る。例えば、下でハンマ-を叩くと、金具がその力に併せて上に上がり、十分強いと、その金具が上にあるベルを鳴らすというわけだ。
(A通もその頃は海外で何かを作るなどはできなくて、納期もあるので日本で作って大物は船で送る、しかし、ある大物が納期がずれ、エアで送ることになる、当時、それだけでエア運賃1千万円、後で経理に何と言われるかしれないが、エイヤっと送る。)
 
新聞広告を入れ、しかも、入場する時もらったチケットで、車が1台当たる、というおまけ付き。
どんな人が来るか、というより十分な人数が来るか、と言うのが僕たちの心配だった。
準備は終わり、あとは結果を待つだけ、という時、信じられない事が起こった。
準備の終わった日、つまりイベントの前日、空が曇り、たちまち物凄い雨が降り始めた。
まるで、南の国のスコ-ルの様に、気が狂うような物凄い雨。現地人によると18年ぶりの雨だ、との事、それが今来るのか?!雨になれない国は一気に洪水のようになり、全てが無に戻るかのようだった。
まずは、明らかに、このイベントサイトへのアクセスが駄目になる。お客が来ることができない。明日の中止を決定する。
 
そして、初日、入り口は大混乱になっていた。チケットを何枚も手に入れようとする人々で黒山の人だかりになり、もっとチケットを手に入れようと少しも動こうとはしなかった。
 
ミミズの大群のように彼らの手が伸び、誰もが悲鳴を上げそうになった。延々とこの悪夢は続きそうだった。
ついにク-パ-さんは諦めて、持っていたチケットを全部その黒山の人々のなかに投げ捨ててしまった。
 
遊具はそれぞれに人が集まり、遊んでいた。
それから、しばらくして、三々五々もうこれ以上得るものはないと考えた人々は帰りはじめて、ようやく終わった。
 
反省会、2日目のために、入り口に手すりを作り来訪者を並ばせる手段に出た、これはそれなりに功を奏し、並んで一人づつチケットを得て入って行った。
しかし、うーん、この人たちが車を買う層とは違うよなぁ。
 
が、名前を売るのが第一目的だから大騒ぎと言う事で、まあ良いか・・・と言う事にしよう。
 
後は、各拠点での展開に期待しよう、と逃げた。

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