1982年 アフリカ・コンベンション(2)空港でプレゼン資料が消えた|ぼくの海外広告アドベンチャー時代
このセットさえあれば、電気のあるところどこでも、立派なプレゼンテーションが行えると言う、自慢のカンパケ・セット(カンパケ=完全パッケージ)なのである、これが消えてしまった。
このコンベンション開催の責任者である海外企画室海外商品計画グループのNMグループ長以下、我々含むスタッフは暗く落ち込み、頭を抱えていた。
この国の販売店の責任者の見解は、ジュラルミンの箱が余りに立派だったので、空港関係者が中に大変なものがあると推測し、隠したに違いない、と言うものだった。確かにフランス、パリの空港での記録ではこの荷物は同じ飛行機に載っており、消えたのは飛行中の飛行機からか、この空港についてからになる。
販売店サイドは、彼らの最高のコネを使って、空港サイドに圧力をかけまくっている、と叫ぶ。我々も、日本大使館に連絡し、大使としての最大級の力を要請して、大使館サイドもこの国の外務省、経済省などに働きかけて、協力してくれているらしい。
我々は最悪の状況を想定して、配布資料に手直しを加え、大画面プレゼンテーション無しでの、新型車説明会という感じで、コンベンションを乗り切れるように、方向転換を考え始めていた。つまり、紙を配って、「24ページを見て下さい。」などとしゃべりながら、車を説明すると言うわけだ。まあ、試乗用の車はあるので、試乗会は何とかやれる、などと慰めながら・・。
しかし、我々はこの最初のアフリカ・コンベンションでそんなしょぼいコンベンションをやるためにアフリカくんだりまで来たのではない。派手にぶち上げて、彼らが東京に来たと同等の、世界で車を売っている日本メーカーとしてのパワーをきちんと示し、彼らに自信を与え、鼓舞するために来たのだ。地道な説明会では当社での最初のアフリカ・コンベンションの名前が泣く。
そうして、2日後、コンベンションの前日、またもや忽然とそのジュラルミンの箱は空港倉庫の傍らに出現したのだった。
さまざまな方向からの圧力が激しくなり、隠した側が、これはヤバイ、と判断して、放棄した、としか考えられない。
その忽然の出現の報が届き、我々は狂喜乱舞した。
もちろんそのジュラルミンの箱は十分に力を発揮し、我々の意図どおり、世界的な自動車メーカーとしてのパワーを見せつけ、販社たちにショックと自信を与えた、・・・と今でも信じている。