森美術館とアーツ千代田3331を見る (その1) |定年後65歳からアートをつくる 

今日はお正月明けで初めて街中に出て行った、心身の健康を保つためにも。
今日の計画は、森美術館「カタストロフと美術のちから展」とアーツ千代田3331「ポコラート受賞者展」である、「格」としては大違いの2つである。
最初は六本木、森美術館、シニアは1500円である。もちろんほとんどすべてがそれなりにエスタブリッシュされているアーティスト、である。
以下は当然ながら私の極個人的立場と感性と知識のレベルによる感想である。
まずこの作品がある。
残念ながら、まんまじゃないか、張りぼてで作ってそれがどうした?と感じるのである。
津波後の写真の羅列もかなりあったが今これが何なのか?と思うばかりだ。
つまり、例えば大地震などの災害をテーマにしている作品に向かうと、観客は何を感じるのだろう、と思う。
例えば、リンゴの絵ならば、何も考えないでその絵の出来栄え、作品としての力などを感じれば良いのだろうが、その作品の対象が災害ならば、単に作品の出来栄えでは、ないだろうと、感じるのだ、では、何かと言うと、対象の事象までも、作品と同列で向かってくる気がする、それを、区別などして感じるのか、など、どのように感じているのか、自分自身良くわからない。
次は日常の異常さを、的な説明があった。それなりに面白い、が、展覧会のセンスとはちょっと外れているのではないかなぁ?
原爆を美しいと感じたアーティストの作品、そう言う見方もあるよね、との説明。間違ってはいないだろう、作品も魅力的だが・・・。これも、対象の原爆、絵の出来栄え、双方を感じるべきなのか?
その他いろいろある。

そうして終盤へ、つまり、アートが何ができるのか?ではなく、具体的にするのである、との事で、現実にアートが現地の子供の心の内へ向かう行動を紹介する。(現場でやっているのならそれでいいじゃないか、と思うのだ)
最後に真打的な小野ヨーコの作品、作品として、もちろん魅力的である。
繰り返しになるが、こういうものを見る時、いつも感じるのだが、見る観客はどんな感想をもつのだろうか、大変だったなぁ、か?何か援助しなくては?とか、一体何を感じるのだろう? 作品の対象、と、作品の出来栄え・・・・・・。
正直言って、自分自身、どう感じているのか、実際、良くわからない、のだ。
作者自身も何を考えながら作るのだろうか、良い出来栄えだ、と嬉しがるのだろうか、よくわからないのである。
(続く)

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