1976年6月22日に結婚した|ぼくの海外広告アドベンチャー時代
そのCISAの大ディストリビューター・コンベンションから2週間ほど後に、ぼくは結婚した。同じ海外企画室の広宣Gの女の子。
同県人しか認めない、頑固な母親の説得は諦めて、勘当され、どちらの親族も親戚も参加せず、そのころの友人数人に立ち会われて、格安の軽井沢の結婚式場で結婚を行い、また格安のグァムへの新婚旅行を行って、正式に結婚したのだった。
住むところは、会社の社宅があるはずなのだが、変な規則があって、結婚6か月後からしか入れない、6か月間どこに住もうか?下北沢に決めた。
ぼく達が下北沢に住もうとしたのは、そんな深い理由はない。
会社の独身寮があったのが小田急線の成城学園前で、同じ沿線で下北沢はまだまだ派手な町ではなかったが、初期の蕾のような繁栄をしていた、かなり若者の街だった。
ぼくにとっては何時も行っていたジャズ喫茶マサコがある街でマサコのママともよく話していた。そして、小田急線と井の頭線の交差点にある街で、北の吉祥寺と南の渋谷を結ぶ真ん中にあった。
吉祥寺も初期の何かが大きくなろうとしていた街だった、ジャズ喫茶としては、Meg(メグ)があり、よく行っていた。さまざまな若者文化が芽生えようとしていたころだ、と思う。
(マサコは、2009年、惜しまれながら閉店した)
(吉祥寺Megは2017年現在も営業している)
要するに、渋谷、下北沢、吉祥寺と言う直線的な、何かが出てきそうな街の繋がりの中の町だった。
半年後、会社の社宅が同じ小田急線の数個向こうの「梅ヶ丘」にあったので、引っ越し、ぼろっちい社宅アパートだったが、数年で、同じ梅ヶ丘のもうちょっとマシな社宅アパートに引っ越しした。
上京以来、会社の独身寮が「成城学園前」にあり、結婚して「下北沢」、「梅ヶ丘」と、長い間小田急沿線に暮らした。