1979年9月 CISA撤退の後の説明出張:スーダンへ|ぼくの海外広告アドベンチャー時代

ナイロビからハルツームに飛び立ったスーダン・エアーの飛行機(飛行機体がかなり疲れているのは明白だ-怖いなぁ)は途中かなり南にある空港に降りた。灼熱の何にも無い空港に僕たちはおろされて、しばらく休憩だ。燃料でも入れているのだろう。真っ黒い人々がいた。余りに黒くて青く光っている。
 
何にも無い黒いアスファルトがただ広がっている直射日光の空間にそのまま残されて、近くに平屋の小さな建物があり、トイレに入る。むっとしたアンモニアの臭い、が立ち込め、息を止めて、する。
 
やがて、案内があって、再び飛行機へ…。何にも無いこの空港へ、多分生涯のうちで2度と立ち寄り事はないだろうと、思った。ジェバ空港だった。今では日本ではある程度有名、自衛隊が派遣された南スーダンの首都だ、が、その頃は、全くの田舎空港だった。
スーダン・エアーの飛行機の中でトイレに行った時見たのは、便器の底で波打っている黄色い液体、多分タンクがいっぱいで上まで上がってきているのだろう。
 
無事に飛んでいるだけでも感謝しなくちゃ、と思った。
 
ス-ダンの、いやハルツ-ム空港は、・・・・よく覚えていない。
ただ、空港を出て、無茶苦茶多くの人間の数に圧倒されて、僕たちは困った。
田舎の駅のような空港、すぐ広がる背の低い建物の茶色の風景、群がるタクシ-、・・・一台のタクシ-を捕まえ、ヒルトンへ、運転手の顔つきはおそろしい。人でも殺しそうな迫力。まさか、真っ昼間から・・・、と一瞬疑う。
 
ヒルトンまではそんなに遠くなかった。近づくにつれ、茶色の、けっこう貧乏臭い家並のなかで、ヒルトンは城のようにそびえ立っていた。或いは、異世界のように存在していた。
 
 
 
ヒルトンは当たり前だけれど、あの世界一流のホテルだった。
周りと、全く関係ない世界がいつものように、当然の様に広がっていた。
 
ヒルトンはアメリカ人ビジネスマンと観光客のために世界中のどのにでも、どんなに苦しいところにも、アメリカ空間を作り上げているのだ。
 
ヒルトンのロゴはいつもすごいと思っていたのだけれど、普通と違って、場所によって異なる。普通は世界中どこに行ってもヒルトンはひとつのロゴで通すのが当たり前で、ところがヒルトンはどこでもその国、都市、によって違えている。
 
しかも、ホテルの中もその国の特質を示しながらデザインされる。まさに、アメリカ人向けなのだ。ハルツ-ムは白ナイルと青ナイルが合流する都市。その合流点のすぐ側に立つヒルトンの僕の部屋のベランダから、神秘的なナイルが流れ、青と白が混ざるのが見える。そして、エジプトへと距離を延ばしている。
 
ス-ダンの親父は気性のいい親父だった。あの日本から、自分たちが商売しているあの黄金の国ジパングから、初めて、このハルツ-ムに来た日本人(多分サービス除く)。きっと、感激したに違いない。
だって、普通日本から日本人が自分を尋ねてくるはずがない、多分ね。彼を産んだ親だってまさか日本人が将来息子を尋ねてくるなんて想像だにしなかったはずだ。
 
もちろん、日本人たちはスーダンが何か、とか、その100年前には何をしていたか、とか、ハルツ-ムとは何か、その20年前に世界大戦の時どんな状態だったのか、とかについて、誰もしらない。
空襲はあったのか、配給はどうだったのか。住んでいた日本人は(いなかっただろうな)翌日、僕たちはディストリビュ-タ-の店に行って、打合せだ。
 
建物の脇の草地に、大きなテントを張った、冷房のない、下が地面のスペースだった。大きなテ-ブルを囲んで、僕たちはそれぞれ、広告宣伝、サ-ビス、部品、など説明した。気だるい空気の中で、言葉はまるで虚しい。上に大きな扇風機がゆったりと回り、外に向かって開かれた窓からは町の音が聞こえる。
 
誰もが真面目にやっていないように思える。暑い空気の下、天井で回る扇風機、アリがはい回る赤い地面。全ての言葉が吸い取られて行くような・・・・・。「もう多分二度とここには来ないだろう」とふと思う確信、・・・この、何か、魅力溢れる街へまた来たい、それなのに二度と来れないといる確信は辛い。
 
車はそう何台も入ってはこないのだ。だから、本当は、野菜の輸出で儲けている、との事だ。信じられなかったが、この乾燥した土地で野菜を作らせ、欧州に輸出する、と言っていた。「ここにも、二度と来ないかもしれない。」
 
 
彼は、博物館に案内してくれた。
 
思いもよらなかったが、ス-ダンはエジプトに隣接し、この国もミイラとピラミッドの国だったのだ。
沢山のミイラ、こんな所で突然対面するとは思わなかった。そんなに広くない部屋にぎっしりという感じでミイラが並んでいた。
何となくエジプト展で見たような、黄金の品々や像がやはりあった。昔は、今もかな、同じ文化圏だったのだ。
 
彼が誇らしげに案内したのはよく理解できたし、ここで初めて、ス-ダンはエジプトと同じミイラとピラミッドの世界だという定義を持った。いやその前に、そうか、ス-ダンはいやハルツ-ムは青ナイルと白ナイルの合流地点だという定義の方が早かった。この美しい川が合流する様は美しい。
 
夜、僕たちはひっそりホテルのレストランで食事をとった。もちろん、外にはでない。
 
ロビ-でゆっくりしていると、昼間お世話をしてくれたM商事の人が家族と一緒にホテルを歩いている。
「どうしたんですか。家族でゆっくりホテル飯ですか。」
にこにこ笑いながら、「とんでもない。停電ですよ。周り中全滅です。ク-ラ-も冷蔵庫も全て止まりました。とても家にはいられませんよ。」
 
駐在員は辛い。特に家族は。
僕たちは大いに同情したが、彼らは平気だ。そんなに気にしていては、やっていけない。
 
確かにここは別世界だ。一週間ホテル住まいで出ていくには、いい国だ。
でももっといるともっと楽しいかもしれない。
 
この国を出るだいたいの飛行機は、この国に真夜中に着き、発する。僕たちは、次にはどこに行くのだっけ。
真夜中、ス-ダン脱出をなし遂げようとするビジネス・マン、駐在員、とその家族、真夜中に空港で待つ、飛行機さえ捕まえれば数時間ののちには慣れ親しんだ文明国に着ける。
 
心休まる、石畳、噴水、当然のように明るい町並み、ゆったりと歩く人々、グレイ基調の町並み、適当な温度、何もかもが憧れの文明国、と言うわけだ。しかし、不幸は突然やってくるそうだ。
 
やっと座ったシ-ト、大変な苦労をしてとったシ-ト、座って、静かに目を瞑ろうとして、声を掛けられ、信じられないような言葉「飛行機から下りてください」・・・・・・
政府の高官が突然の必要で、シ-トが必要なのです・・・地獄の底に陥れられ、泣いた日本人もいたそうだ。気持ちは判る。
 
そうして、ナイロビへと脱出し、ぼくは中国での上海横浜工業展のために、モザンビークへ向かう他の4人を残し、敵前逃亡と罵られながら、日本へ帰っていった。
 

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