1979年上海横浜工業展 とんでもない物の出品、何トンものパンフレット|ぼくの海外広告アドベンチャー時代

横浜市は横浜市だけでなく、神奈川県の企業にも声をかけ、川崎市にトラック工場を持つ当社は、このチャンスを逃すことなく、多分渡りに船で参加を決めたのだろう。
そして、出展が決まり、では何を出品するのか?
そこで、とんでもない物が選ばれたのだ。
D200。20トン積載の特殊なダンプである、街中を走っているダンプ・トラックではなくて、山奥の例えば鉱山の一定のサイトの中で働く専業特殊ダンプなのである。
 
 (このモデルではないが、こんな感じのダンプで、一度に20トン運べる)
 
実際に売り込むような製品ではなく、目的とすれば、「こんなすごいダンプ・トラックを生産しているような、凄いトラック・メーカーです。」とアピールしようとしているだけ、と考えられる。
いろいろ議論はあったらしい、候補の製品の中にはあったらしいが、次のビジネスに繋がるような車ではなく、反対も多かったらしい、が、その時の現場責任者が最終的に決めたらしい。大いに疑問もあるが、今後どう進展して行くかわからない、門戸を開いたばかりの国に何をアピールするか、と考えた時、100%ない、と言う選択ではないとも言える、・・・かも知れない。
 
そのD200が港から会場までパレードのようにゆっくり走行した写真を見たが、まるで超満員のお祭りの町で超でかい山車の様子だった。
 
もちろん僕たちも張り切っている、世界に門戸を開けた中国の最初の大きな規模の国際ショウである。
 
 
一体何人の人がこのショウに来るのだろう、全く実績が無く、入場予想者数から計算して大変な数を印刷した、その量を上海のショウ・サイトで見て、驚いてしまった、こんなすごい量なのか??!! 天井まで届くのではと思えるようなでっかい木箱にぎっしりと入ったパンフレットを見て、これはやり過ぎた、と思った。
が、最終的に、それは全て出払ってしまった。来場者はとにかく日本の美しく印刷されたパンフレットを競い合って奪い合った。
僕たちが用意したのは、トラック中心の総合的なパンフレットと全ラインアップを見せた下敷きである。何か実生活で役に立ち、しかもきちんと宣伝できるもの、として下敷きを選んだ。これも大変な奪い合いになった。
 
カタログを配布するのは一種の危険を伴う冒険だった。配り始めると全会場の殆ど全ての人が一斉に配布場所に向かって突進してくる。不運なことに、僕たちはカタログの他に下敷きも作っていて、結構これが人気があった。持ってきた以上残してくるわけにはいかず、覚悟を決めて配り始める。突進してくると逃げる。危なくってしょうがない。一体何をしているのか分からなくなるのがちょっと寂しいが、まあお客さんがあんなに喜んでいるので良いか。
 

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