1979年中国の市場開放 看板、上海横浜工業展|ぼくの海外広告アドベンチャー時代

中国では1976年の毛沢東死後、鄧小平が権力を持ち、1978年に改革開放路線が採用され、市場指向型へ舵を切って行った。
中国は潜在的な超大型市場なので、当然、多くの外国企業が進出を目論んだ。M自動車も進出を狙い、まだ市場がどんなものか、どのようなものを誰に売るのか、具体的にどんな政策なのか、どんな形になるかも曖昧な状況で、広宣Gも動きに入って行った。
 
日本企業を初めとして外国企業が百メートル競走のように、一斉にスタートする。
 
広宣Gの担当主任(ZO)さんはまず、初めて外国企業に許される町中の看板に注目、北京の目抜き通りの交差点の大看板への一番乗りを目論む。当然、まずは知名度である。また、一番乗りは、メディアにも取り上げられるはずで、まあ、昔の一番槍とか、火事場での一番まといなどと同様な感じである。どうせ、看板を出すのなら、一番札を狙うのは当然だった。
 
同時に、新聞と共に、ラジオで広告を流す事で、相乗的な知名度獲得、増大を目論んだのである。
しかし、ここで大きな問題が生じる。ブランド名の事である。ブランド名を何と覚えてもらえば良いのか?が問題になった、それは、中国が漢字の国だったからだ。
 
M自動車のブランドは、菱形の三菱「マーク」と、日本では、「三菱(みつびし、と発音)」、海外では「Mitsubishi(みつびし、と発音)」とし、車にも、販売店頭にも、そのように使われて来た。
 
 
中国では、戦争時代でも第1級の財閥として知られ、これまでも限られた範囲ながら、三菱は「三菱」として認知され、「サンリン」と発音されてきていた。もし、「みつびし」と発音してもらおうとすると完全に別の当て字の漢字を作ることになる、がそんなものが漢字の本場で受け入れられることはないだろう、と推察されていた。
 
そうして、最終的には様子見的なあいまいさも残して、例えば、ラジオならば、「サンリン・マークの、ミツビシ・チーチャ(自動車の意)」としたのである。かなり苦肉の策である。看板ならば、三菱マークの下は「三菱汽車」で表示し、下部には、アルファベットで、「MITSUBISHI MOTORS」と記したのだった。
 
更には、中国でも人気のあった「鉄腕アトム」を、トラックの力強さにもひっかけて、キャラクターに採用して(写真の右上にある)、認知度促進を図ったのである。
 
つまり、サンリンとみつびしの両方を残したのである。
そうして、とにかく、M自動車の看板は、中国における外国企業最初の看板となった。(写真は別の場所のもの)
 
そして、第二弾は、上海で、当時姉妹都市(1973年、上海としては外国姉妹都市第1号)であった横浜からの工業製品展の開催である。
1979年10月「上海、横浜工業展覧会」、これのために、ぼくは、敵前逃亡などと言われても、モザンビーク行きを中止し一人日本へ帰って来たのだった。
スーダンを離れロンドン経由で日本に着いたのが、9月23日、その後10日間ほど最終準備などを重ね、羽田から上海に向かったのが10月4日だった。21日まで約2週間少々を上海で過ごした。
 

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